2024年12月19日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月18日 この範囲を時系列順で読む
見た目の直接のモデルになったのはおそらく現クルジュ=ナポカ市の騎馬像だろうけども、鼻筋や頬骨、顎のラインなんかよく描写される王の特徴を捉えているし、目もとの穏やかだけど笑っていない感じも「これこれ!」となる。せりふの節々に自分が王であることへのこだわりが覗いているのも、自身の権威を絶えず示し続けなければならなかった事情を踏まえているのだろうし、指導者としての能力も傭兵による常備軍の強さと維持のきつさをよく表している。
学問や書物に関する特性がないのはちょっと残念だけど、開発側も「多才な人物なのでどの部分にフォーカスするかとても悩んだ」と言っていたし、ゲームに落とし込む上での妥協と解釈している。そもそも、ハンガリーの指導者としてこの人物が選出されたのも「徴兵システムにもっと光を当てたい」という開発側のニーズと合致したためだろう。もしもマティアスに別衣装(笑)が存在したら、「ルネサンス王」といった具合で文化面に特化した鴉の王も見られたのかもしれない(見たかったよお)。
貧しい農夫が巨大なカボチャを見つけて、王への贈り物にした。王は大層喜び、農夫に褒美として金を与えた。農夫はその金で雄牛を買い、おかげでずいぶん楽に畑仕事ができるようになった。
別の男がこれを見て、一計を案じた。彼は裕福で、おまけに美しい仔馬を持っていたので、この仔馬を王に献上して自分もご褒美を貰おうと考えたのだ。王は「こんな美しい仔馬は見たことがない!」と喜んで、男を例の巨大なカボチャのところへ連れていくとこう言った。
「どうだ、すばらしいカボチャであろう?」
「はい、王さま。こんなすばらしいカボチャは見たことがございません!」
おべんちゃらを言う男に、王はすかさず次のように言った。王の統治はかくも公正なものだったからだ。
「そうか! では仔馬をくれた礼に、このカボチャをそなたにやろう!」
ぐりとぐらなら巨大カボチャで素敵な料理を作ってくれそうだけど、ここでは欲をかいた男がカボチャでがっかり、という残念賞扱い。ハンガリー語には「カボチャ頭 (tökfej)」という悪口もあるそうなので、そうしたニュアンスもあるいは込められているのかもしれない。
#民話
2024年12月17日 この範囲を時系列順で読む
チウが出てきたとき、初見ではバダックさんよろしく「なんだコイツ」だったけど、彼が周囲にもたらすプラスの影響ってけっして小さくはないと思うのだ。自分が人間ではないことなんてたいしたことがないように思えてくるというダイ、そしてチウの根性を知って過去の自分を省みるポップ。ポップが過去の自分にはできなかったチウの戦いぶりを見て、今の自分が果たすべき「パーティの知恵者」としての観察眼・判断力を発揮するシーンには、ポップ自身の成長も表現されているし。
ランカークス村到着からロンに会いに行くあたり、あちこちカットされているのはとても残念。ダイの「理知的……あれで?」はコミカルなやり取りだけど、ダイが破壊と殺戮の化身となった竜魔人バランをごく当たり前に父親として受け入れている証左ともいえる好きな場面なんだ。畳む
#ダイの大冒険
2024年12月16日 この範囲を時系列順で読む
ポップのメガンテに動揺するヒュンケルの声は、声優さんの「素」というよりもヒュンケルの「素」が出ているようでとても好き。クールぶってるけど中身は真面目な熱血漢で、そのことを声優さんも理解して演じているのだと思う。
父と子の戦い。ダイは「お前なんか父さんじゃない」と言いながらも、バランが去るときにはすでに彼が父であることを受け入れている気がしている。もちろんそれはバランがポップを蘇生させたことを前提としているけれど、バランを父と認めていなければ「わからずや!」なんて発言は出ないのではないかと……。
バランはバランで「今さら生き方は変えられん」とか言いながらも、息子を自分の思いどおりに束縛しようとする未熟な父親から、息子には息子の信じる生き方がある成熟した父親へと内面を変化させている。ダイ大の好きなところのひとつは、その気になれば人はいつでも生き方を変えることができるし、それは子供も大人も人間もほかの種族も同じというところなんだよなあ。畳む
#ダイの大冒険
2024年12月15日 この範囲を時系列順で読む
ハドラーはすっごく大好きなキャラクターとまではいかないけど、イケイケだった魔王時代のあと、アバンに誇りを砕かれたことや大魔王との邂逅によって本来の自信や野心を損なわれ、自分の手で勝ち得たわけでもない魔軍司令の地位に固執し、落ちるところまで落ちて初めて吹っ切れる……という見事な成長曲線に様式美を感じている。
それにわたしは、敵役がバーンのように超然としているのではなくジタバタ足掻くのが好みだから、中間管理職のような立場に置かれたりダイがバランを倒すことを願ったり、そういう卑近で小者っぽい姿を見せるのもいい。あのダメダメな時期を経ての「オレを舐めるな大魔王」「骸が動いたのだ」だからね、嫌いになれるわけがないのよ。畳む
#ダイの大冒険
2024年12月14日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月13日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月12日 この範囲を時系列順で読む
そういえばあの本は、《フニャディ・ラースロー》に対して「まるでドニゼッティのようだ」とか「国民オペラのいかがわしさの典型」といった厳しい評価を下していた。エルケルがドニゼッティに影響を受けていることは広く指摘されているようだし、「いかがわしい」もわからないではないけども、《フニャディ》よりあとの《ドージャ・ジェルジ》なんかは音楽の方向性が結構変化しているように聴こえるのよな。シロウトの耳だけど。
#オペラフニャディ
2024年12月11日 この範囲を時系列順で読む
バランの変身シーン、何度見てもすごい。何話か前にほかの回と比べて妙に動きの少ない回があったけど、ひょっとしてこのためにスタッフの力を温存していたのだろうかと思うほどだ。
ヒュンケルの説得が逆にバランの竜魔人化を招いてしまったのは、それが正論すぎるからかなと。一度は闇に堕ちたヒュンケルの言葉には実感がこもりすぎているし、人間に対する相反する感情を持つ者同士、バランはヒュンケルに自分の本心、つまり人間に対する憎しみが半ば八つ当たりであることを見抜かれていると感じたのではないだろうか。もしかしたら、もう一人の息子と目し、悲しい過去を打ち明けるまでに信頼していたラーハルトがヒュンケルに思いを託したことにも、このときのバランは「裏切られた」と感じていたのかもしれない。
竜の騎士とはいえ「人間」の要素は持ちあわせているわけで、人間の心が象徴する弱さや人を愛する心もバランの中に初めからある。だからこそ彼は自己の心の矛盾に耐えられず竜魔人化を選ぶ。それは現実から目を背ける行為にほかならないのだけど、そういう格好悪い心のあり方も含めて、後々のダイはバランのことを素直に自分の父親として受け入れているんだよな、と考えるととても感慨深い……。畳む
#ダイの大冒険
2024年12月10日 この範囲を時系列順で読む
竜騎衆が登場したところ。旧版アニメではここまで描かれなかったから、今もなお未知の領域に突入したかのような感動がある!
このあたりのバランは息子を思いどおりに動かそうとする独善的な父親そのもので、絶望的な強さと人間的なちっちゃさのギャップがとてもいい。速水さんがこういう人間味あふれる演技をする人だとは思っていなかった(あと「バラン万丈の」みたいなことを言うキャラだとも思ってなかった。なんだよそのかろうじて思い浮かびましたみたいなギャグ)。
逆に、今でも違和感を拭えないのが石田さんのラーハルト。なんだか無理をして喋っているような印象があるし、ほかに適任の声優さんがいたんじゃないかと思ってしまう。終盤の再登場あたりまでいけば少しは感じ方も変わるだろうか?畳む
#ダイの大冒険
2024年12月9日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月8日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月7日 この範囲を時系列順で読む
ある貧しい男が死んだ。男の家族が細々とした葬式を挙げているところを見かけたマーチャーシュ王は、王妃ともども正装して男の葬式に参列した。すると人々は、王と王妃が参列するからにはさぞかし立派な人物が亡くなったのだろうと思い、一人また一人と葬列に連なった。こうして貧しく死んでいった男は、最期に多くの人にその死を惜しまれるという栄誉に与ったのだった。
これはこれでいい話なんだけど……同じ作り話なら「金を払わなければ葬式はしない」と言い放った悪徳司祭が金を払った王の命令で自分自身の葬式も挙げることになる前者のほうが、おはなしとしてのおもしろさがあると思う。
#民話
ある女が道端で涙にくれていた。通りかかった王がなぜ泣いているのかと尋ねると、女は夫が死んでしまったのに金がない、司祭は金を払わないと葬式を挙げてくれないのだと答えた。そこで王はあわれな女に金を恵んでやり、この金で司祭を呼び、棺桶をふたつ買うようにと言った。女は王に感謝し、司祭が呼ばれ、こうして無事に葬式がおこなわれた。葬式が終わると、その様子を見守っていた王は居合わせた人々に命じ、欲深い司祭をもうひとつの棺桶に押し込めて葬ってしまったのだった。
これとほとんど同じ話がロージャ・シャーンドルにもあるそうで、虐げられた民衆の恨みを晴らして正義を回復する役目が、15世紀の国王と19世紀のアウトローという一見共通点のなさそうなふたりに与えられているのはおもしろい。
#民話
2024年12月6日 この範囲を時系列順で読む
この時期、コッシュートはロンドンにいたようだ。マジャル国内のコッシュート派がロージャとの接触を試みたという話もあるそうだから、活用しようと思う。
2024年12月5日 この範囲を時系列順で読む
ヒュンケルに対するレオナの裁決に、マトリフが「パプニカも持ち直すかもな」と呟くシーン。かつてマトリフが王宮の重臣たちにうんざりして隠遁したことを思えば、とても希望に満ちたシーンだ。
ダイ大の根底には「力ある者は恐れられ、迫害される」というのがあって、そのことがダイにあのせりふを言わせてしまうことになるけれど、少なくともダイの周辺の人物たちはそうではない未来を築いていける人々として描かれているよな。いわば若い世代であるアバンの使徒だけでなく、脇役キャラにも種族の垣根を越えた友情や敬意がたくさんある。クロコダインとバダックさんはもちろん、クロコダインがアキームを「死なせたくない」と感じるのもそうだし、ポップ父とロンもそうだ。ブラスじいちゃんとロモスの兵士たちが和やかにチェスを指しているシーンなんかもね……。現実では絵空事でも、ダイ大の世界では「過去には対立や断絶もあったけど、ダイが守った世界においては人々も魔物も協力しあって平和を作っていく」という解釈がしたい。畳む
#ダイの大冒険
2024年12月4日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月3日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月2日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月1日 この範囲を時系列順で読む
2024年11月30日 この範囲を時系列順で読む
2024年11月29日 この範囲を時系列順で読む
フレイザードの悪党ぶりは徹底していて好きだ。ただ「敵役だから」という理由ではなく、そのキャラが何を望んで残酷・狡猾に振る舞うのかというのが伝わるから、フレイザードやザボエラのような存在が輝いている。噛ませ犬とのそしりもあるガルダンディーやボラホーン、マキシマムあたりも出番がもっと多かったらさらに印象的なキャラクターになっていただろうか。
今回ふと疑問に感じたこと。バランは「軍団長がダイという少年に次々と倒された、ハドラーも総攻撃に踏み切るほどの相手らしい」というところで何か察するものはなかったんだろうかと思った。バランの性格なら、「もしもディーノが生きていたら、今ごろは○歳になっているはず」と折に触れて考えていても不思議はないし、クロコダイン、ヒュンケルを打ち破った少年という部分で「もしや……」と思い至ってもべつにおかしくない。畳む
#ダイの大冒険
2024年11月28日 この範囲を時系列順で読む
2024年11月27日 この範囲を時系列順で読む
クロコダインがヒュンケルに対して口にする「おまえは見てみぬふりをしている」発言。昔は何気なく読んでいたけど、今ではヒュンケルというキャラクターを理解するうえで大切な部分じゃないかと思うようになった。
このころのヒュンケルって洗脳されているわけでも芯から悪に染まりきっているわけでもなく、為すすべもなく父を失わなければならなかった怒りとやるせなさをだれかにぶつけずにはいられない状態。かといってアバンの人柄を知っている以上(獄炎での描写が楽しみ!)、アバンを憎むにも憎みきれないし、そもそもアバンを憎むことが筋違いであることも心のどこかで理解している。だからこそ、その怒りを「人間」という漠然としたものに転嫁せずにはいられない。
魂の貝殻によってバルトスの直接の仇がハドラーであることを知り、バルジ島での戦いではハドラーを父の仇と見なす発言もしているけど、それ以降のヒュンケルが特にハドラーへの怒りを表明しないのは、時を経て彼が自分自身と向きあうなかで、かつての自分を衝き動かしていたものは父の死や無力な自分へのやるせなさと怒りであって、特定のだれかに対する憎しみではなかったことに気づいたからなのかもしれない。畳む
#ダイの大冒険
2024年11月26日 この範囲を時系列順で読む
わたしは最近までこの神罰説を聞いたことがなかったし、それ以上の詳細な記述もネットでは見つけられなかったので、「本当にそんな噂あったの?」と懐疑的な気持ちなんだけど、ラースロー5世の死はあまりにも突然だし、タイミングとしても絶妙だ。具体的な死因が解明されるまでは、人々が暗殺とか神罰といった、とりあえず納得できる理由を求めてきたのもわからなくはない(「真実」を求める者がいればこそ、それを意図的に作りあげる者もいることだろう)。
《フニャディ》に限っていえば、フニャディ家の人々が美化されるのは愛国的な観点からも当然で、彼らが先王を暗殺したなんて展開はもってのほかだ。まして、「マジャルの英雄たるフニャディさんち vs. ハプスブルクの王」といった構図を大々的に打ち出せば、1840年代には上演なんかできなかったのではないだろうか。
《フニャディ》の憎しみのベクトルはツィレイやガラといった「よこしまなマジャル人貴族」に向かっていて、国王ラースローは彼らに操られる弱い心の持ち主ではあるけれど、悪しき憎まれ役ではない(この点が彼の役回りの中途半端さの印象に結びつく)。彼は脆い心とかなわぬ恋ゆえにみずからの誓いの言葉に背き、みずからの死の引き金を引いてしまう。それがもうひとりのラースローの悲劇なのだ……《フニャディ》の中の王の死について今ではわたしはそういう解釈をしているんだけど、どうだろう。
#オペラフニャディ
1456年11月9日、フニャディ家の郎党がツィレイ・ウルリクを殺害する。フニャディ家の力を恐れた国王ラースロー5世は同月23日、貴族たちを引き連れてテメシュヴァールを訪れ、「フニャディ家の人々を今回の一件で罪に問うことはしない」と誓う。
王の真意は不明だが、フニャディ兄弟は王の誓いを信じたのか、それとも何か考えがあってのことか、王の呼び出しに応じてブダに向かい、逮捕される。1457年3月16日、フニャディ・ラースローは処刑され、兄弟の母エルジェーベトはただちに実兄ミハーイとともに反乱を起こす。
この反乱を鎮めることができないまま、同年11月23日、王はプラハにて急逝する。王の死因は現在では急性白血病と判明しているけど、以前は毒殺説や黒死病罹患説もあった……というのはよく知られた話。
そして当時、それとは別の噂も囁かれていたという。つまり、みずからの「誓い」を破ってフニャディ・ラースローの処刑を命じた王に対して、「誓い」のちょうど1年後のその日に神罰が下されたという内容だ。
この噂が自然発生的なものなのか、それとも「後付け」なのかはわからない。ただ、オペラが盛んに上演されていた当時、「噂」の存在が歴史上のエピソードとして広く認識されていたのなら、《フニャディ》第二幕の王の宣誓のシーンは、第四幕(全三幕のバージョンでは第三幕)でのフニャディ・ラースローの死だけでなく国王ラースローの死をも暗示することになり、演出上とても重要な意味をもつことになりそうだ。
#オペラフニャディ
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鬼眼城を撃破したダイを各国の王たちが見下ろすシーン、ベンガーナ王の目がキラッキラしてていいねえ。魔影軍団が襲ってきたとき、三賢者とレオナが応戦していたけど、バウスン将軍は戦いの心得はないのだろうか。片腕を吊ってはいるけど、戦える人なら咄嗟に身構えたり、近くにいるロモス王やテラン王を庇うそぶりぐらいしてもよさそう。それとも肉弾戦は息子にお任せという人なのか?畳む
#ダイの大冒険