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ザボエラの最期。最後まで卑劣で哀れな敵役として散っていくザボエラのキャラクター、そして動けない敵にとどめを刺すという汚れ役を務めるのがクロコダインであるという、いろいろな意味で感慨深い回。バダックさんとクロコダインのシーンはそこまで多いわけではないのに、この二人のやり取りはつくづくいいなあと思う。
バーンパレスではしばらくヒュンケルのターン。よくよく考えると、このあたりはヒムの覚醒、ヒュンケル最後の戦い、ラーハルトの復活と贅沢な流れなのに、戦う敵が半分冗談みたいなマキシマムというのはどうなんだ? 玄田さんがいつもの玄田さんすぎて笑いながら観てたけど、このあたり笑うようなシークエンスちがう!畳む
#ダイの大冒険
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キルトラップの中で、もはや打つ手なしと絶望するダイとポップをハドラーが嫉妬するシーン、味方側のBGMが流れるんだね(アバンのテーマなのかな?)。声優さんの名演もあって、ぐっと来る最期だった。
でもこの一連のシーンのどこが一番好きかって、ハドラーはアバンの仇なのに(少なくともみんなそう信じてる)、ダイはハドラーの武人の魂に感銘を受けて一騎打ちに応じるし、ポップはハドラーと親衛騎団の中に自分たちと同じものを見て情にほだされるというところ。ダイ大の世界において、憎しみを超越したところにある生きざまは、敵も味方も、人間も魔族もなく通じ合うものなのだろうなあ。畳む
#ダイの大冒険
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本編を読んでいたころは甘っちょろい描写全般がいやで、ポップが自分の恋する相手の名を告白してしるしを光らせるという展開が好きじゃなかった。大魔王を倒すという公的な目的のために、だれそれが好きという私的な告白を強いられているように思えたし、好きな女の子の名前を明かしただけで僧侶呪文を習得するのもありえないと感じた。以下は、最近になってこの場面について考えていること。
ポップの魂の光は勇気だけど、これはシンプルに「だれそれが好きだと告白する勇気」ではないはずだ。なぜならポップが直前まで悩んでいたのは、「自分は選ばれし人間ではなく、アバンの使徒にふさわしくないのではないか(だから、しるしを光らせることができないのだ)」ということだったからだ。
この考えはしるしが光らないことで初めてポップの意識に表出したけど、おそらくは元々ポップの中にあった感情じゃないかなと思っている。ロモスで一度逃げ出してしまった経験も、もしかしたらその劣等感を後押ししたかもしれない。マァムに自分の思いを打ち明けられなかったのも、そうすることでアバンの使徒としての仲間との結びつきが壊れてしまうと感じたからだ。フレイザード編のあとで「好き」の代わりに「すばらしい仲間」と言い替えたのも、きっとそういうことだったんだろう。
死に瀕したメルルに懇願されて「マァムが好きだ」と宣言し、結果的にしるしは光ったけれど、そう宣言すること自体が鍵だったのではないはずだ。メルルがポップへの思いを打ち明けられなかった理由を聞いたポップは、自分もまたメルルと同じであることを受け入れた。そして、マァムへの思いを口にすることで「選ばれし人間ではない」自分がアバンの使徒としての居場所を失うかもしれないという恐怖に向きあい、そして居場所を失うことを恐れる自分自身に勝った。
勇気というのは、何も恐ろしい相手に立ち向かっていくことばかりを意味するわけじゃない。自分の醜かったり卑屈だったりする内面を認めることも勇気だろう。戦いを通じて成長していたポップが乗り越えるべき最大の恐怖は、今や大魔王ではなく自分の内面の弱さだった。わたしは最近ではそういう見方をしている。畳む
#ダイの大冒険
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中盤までのロージャがエッツェルに振り回される役回りで、ついでにエッツェルが陽キャなもんだから、ロージャがコミカルで脇役チックな動きになってしまうというのもありそうだ。この印象を変えていくためにロージャがエッツェルを突き放し気味にして、「陽」のエッツェルと対照的な「陰」の部分を強調してはどうかなと考えている。
>162
第一幕を読み返しつつ第二幕の冒頭に取りかかっているけど、ロージャのキャラクターがいまいち弱いと感じる。主役の片割れという印象が伝わってこない。彼が今の生き方に固着する理由をもう少し早く(第一幕のうちに)提示したほうがいいか……。
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では、彼の敵はどうして待ち伏せができたのか? その理由付けがちょっと弱いと感じて、第二幕にはまだ手を付けていない。いや、プロットを作ってからしばらく経っているのでこんがらかっているだけか……?
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>132
ただ、学問を教えたという事実はなかったとしても、ヴィテーズ・ヤーノシュは父ヤーノシュのブレーンでもあったわけだから、マーチャーシュがまだ父のもとにいたころに接点はあったかもしれないし、なんらかの知的な影響を与えていたかもしれない……という想像くらいは許される気がする。
のちのエステルゴム大司教、ヴィテーズ・ヤーノシュが幼いマーチャーシュの個人教師だったという説は、現在ではあまり支持されていないみたいだ。のちにトルコへの姿勢を巡って対立した両者だから、師弟関係にあったとすればドラマチックではあるけれど……。
ただ、学問を教えたという事実はなかったとしても、ヴィテーズ・ヤーノシュは父ヤーノシュのブレーンでもあったわけだから、マーチャーシュがまだ父のもとにいたころに接点はあったかもしれないし、なんらかの知的な影響を与えていたかもしれない……という想像くらいは許される気がする。
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第一幕③続き。ウサギが横切ったせいで見つかりそうになるロージャだが、かろうじて難を逃れるという展開。
この展開は、1857年にロージャが逮捕された際の実在のエピソードをもとにした。現実のロージャは追い詰められて疑心暗鬼に陥り、古い馴染みのカトナ・パールが自分の隠れ家を漏らしたと思い込んで彼を殺してしまう(実際はウサギを追ってきた猟師が偶然ロージャの隠れ家に近づいた)。
今書いているフィクションは1853年が舞台で、このとき隠れているのもカトナ・パールのタニャとは無関係の場所なんだけど、ロージャには現実とは異なる結末を与えたいので、現実の歴史との分岐点という意味であえてこのエピソードを借用した。カトナ自体は今書いている話にも登場する。
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第一幕②の途中。ロージャの仲間として登場させるのは、この時期行動をともにすることが多かったらしいヴェセルカ・イムレとキシュ・バーチ、オスノヴィッチ・イシュトヴァーンの3人。ロージャの弟のアンドラーシュや、ロージャ・ヨージェフ(ロージャのおじと同名だけどたぶん別人だろう)は登場させなかった。
それはそうと、わたしの小説にイシュトヴァーンさんとイムレさんが登場するのは今回が初めてで、ちょっと感動している。愛称ピシュタさんとか、「これがイシュトヴァーンとかイムレといったありふれた名前なら話は別だが」みたいなやり取りは出てくるんだけども、「聖イシュトヴァーンのなんちゃらかんちゃら」がそれなりの頻度で出てくるために、オリキャラ人名としては使いにくい。
……ご贔屓の名前がレアとはいかないまでもそこまで多数派じゃなくてよかったなあと。
2024年12月28日 この範囲を時系列順で読む
ダイ&バランと超魔ハドラーが戦ってるっていうのに、場の状況は明らかに「バーンはヤバい、キルバーンもヤバい」になっている。一人だけトゥルーマン・ショー状態になっているハドラーがほんと気の毒だ。その一方で、ダイがヘルズ・クローの一撃で負傷した直後、バランに蹴っ飛ばされるハドラーには(笑うべきシーンじゃないのに)ちょっと笑ってしまう。
……ところでヒュンケルってどうやって死の大地に来たんだっけ? 前もってクロコダインがガルーダに命令していたか、あるいは獣王遊撃隊のパピィに運んでもらうくらいしか考えつかない。ダイ大の時代にはキメラのつばさって人間側には残っていないんだったよな。畳む
#ダイの大冒険
2024年12月27日 この範囲を時系列順で読む
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ヒュンケル対バラン、そこに横槍を入れてくるアルビナス。「強大な力同士がぶつかりあえば、それは凄惨な殺しあいにしかならない」ことを悟り、修行に励んだ結果が無刀陣ということだよね。バランがヒュンケルの行動にどれだけ心を動かされたのかということは、直後の「クロコダイン、わたしはどうすればいい」にも表れている。「どうすればいい」だよ、バランが! しかし、ヒュンケルがラーハルトの遺志を継いでいることを強調するなら、二人の対決やお互いを認めあう場面はもう少し時間をかけて描いてくれてもよかったな、と思うのは、わたしが「強敵と書いてともと読む」関係に疎いからなのだろうか。畳む
#ダイの大冒険
2024年12月25日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月24日 この範囲を時系列順で読む
うーん、ノヴァの噛ませ犬感よ。かと思えば戦いの直後に一気にギャグ顔&鼻水コンボの憎めないキャラに。ダイ大は自分の弱さを省みることができ、意地を見せる登場人物にとことん優しいけど、まさか最終的にロンとの師弟関係に落ち着くとは思ってなかった。
チウ対フェンブレンで、「そっか、チウの血は青いんだった」と思ってしまうわたし。絶体絶命のチウたちをバランが助けるってなんだか奇妙な絵柄だけど、その奇妙さが効果を生んでいるのかもしれない。以前のバランがおおねずみやバピラスやマリンスライムを助けたか? いや、見捨てていたかもしれない。そんなふうに思わせることで、バランの胸中に生じた微妙な変化を表しているのかも。畳む
#ダイの大冒険
2024年12月23日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月22日 この範囲を時系列順で読む
2024年12月21日 この範囲を時系列順で読む
バラン戦のとき、ヒュンケル役の梶さんが「実況はヒュンケルとクロコダインでお送りします」とジョークを飛ばしていたけど、死の大地での超魔ハドラー戦は実況キルバーン、解説ミストバーン(ただしあまり喋ってくれない)、ゲストピロロ、みたいになっているのに笑ってしまう。
ダイが氷の海に消え、ポップが冷静に逃げを打つシーンはダイ大の中でも特に好きなシーンのひとつだ。キルバーンは巧妙にポップを煽ろうとするけれど、ポップはパーティの魔法使いとしてあえて逃げるという判断を下し、そこに元因縁の相手のクロコダインが駆けつける。以前敵同士として死闘を繰り広げた二人だからこそ、クロコダインはポップが怖気づいて逃げたわけではなく必要に迫られてそうしたのだということがわかる……ストーリー構成の妙だよなあ。三条先生の本、買って読んでみようかな……。畳む
#ダイの大冒険
2024年12月20日 この範囲を時系列順で読む
マーチャーシュ王(れきしじょうのすがた)は鎧を着て馬に乗って戦場へ行った人なんだから、いくらなんでも白兵戦の訓練をこれっぽちも受けていないということはないだろうなあ、という考えでいる。子供のころから人文主義者としての教育を受けて、学問に親しんでいた本好きではあるけれど、幅広の川を泳いで渡ることもできたというからには体も鍛えていたんだろう。軍事知識も学んでいたというから、将来は兄のように父とともに戦場へ出向き、ゆくゆくは軍団を指揮することを期待されていたのじゃないか。フニャディ家は成り上がりの身分なのだし、ツィレイ家の娘と婚約したことからも、家のことは兄に任せて弟は勝手気ままに学問を……なんて立場ではなさそうに思える。それにはやっぱり白兵戦の訓練だって必要だ。
てなわけで、本邦の光圀や吉宗が武士であったのと同じくらいにはマーチャーシュ王も騎士(よい家柄で、訓練を積んだ重装備の騎兵くらいの意味で使った)だったのじゃないかと思うんだけど、どうか。