はねやすめ

No.174

ダイ大68話まで観た。ポップのこと。

本編を読んでいたころは甘っちょろい描写全般がいやで、ポップが自分の恋する相手の名を告白してしるしを光らせるという展開が好きじゃなかった。大魔王を倒すという公的な目的のために、だれそれが好きという私的な告白を強いられているように思えたし、好きな女の子の名前を明かしただけで僧侶呪文を習得するのもありえないと感じた。以下は、最近になってこの場面について考えていること。

ポップの魂の光は勇気だけど、これはシンプルに「だれそれが好きだと告白する勇気」ではないはずだ。なぜならポップが直前まで悩んでいたのは、「自分は選ばれし人間ではなく、アバンの使徒にふさわしくないのではないか(だから、しるしを光らせることができないのだ)」ということだったからだ。
この考えはしるしが光らないことで初めてポップの意識に表出したけど、おそらくは元々ポップの中にあった感情じゃないかなと思っている。ロモスで一度逃げ出してしまった経験も、もしかしたらその劣等感を後押ししたかもしれない。マァムに自分の思いを打ち明けられなかったのも、そうすることでアバンの使徒としての仲間との結びつきが壊れてしまうと感じたからだ。フレイザード編のあとで「好き」の代わりに「すばらしい仲間」と言い替えたのも、きっとそういうことだったんだろう。
死に瀕したメルルに懇願されて「マァムが好きだ」と宣言し、結果的にしるしは光ったけれど、そう宣言すること自体が鍵だったのではないはずだ。メルルがポップへの思いを打ち明けられなかった理由を聞いたポップは、自分もまたメルルと同じであることを受け入れた。そして、マァムへの思いを口にすることで「選ばれし人間ではない」自分がアバンの使徒としての居場所を失うかもしれないという恐怖に向きあい、そして居場所を失うことを恐れる自分自身に勝った。
勇気というのは、何も恐ろしい相手に立ち向かっていくことばかりを意味するわけじゃない。自分の醜かったり卑屈だったりする内面を認めることも勇気だろう。戦いを通じて成長していたポップが乗り越えるべき最大の恐怖は、今や大魔王ではなく自分の内面の弱さだった。わたしは最近ではそういう見方をしている。畳む

#ダイの大冒険

No.174 そのほか #ダイの大冒険

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