この文章は「ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ…」の内容に触れています。
ドラクエ3の思い出
もうすぐドラクエ3のリメイク版が発売される。近年はテレビゲーム自体から離れがちだったこともあり、リメイクと名のつくものにはあまり関心を示してこなかった。それでもドラクエ3となれば話は別だ。
最初のリメイクであるスーパーファミコン版は、バックアップ電池がヘタるまで遊んだ。すごろく場の存在や装備面での女性キャラクター優遇といった要素は気に食わなかったものの、全体としては優れたリメイク作品だったと今でも思っている。すぐにセーブデータが吹っ飛んでしまうファミコン版と比べて、気軽に取り出して遊べるのもいいところだ。
もちろん、オリジナルあってこそのリメイクだ。そもそもファミコン版ドラクエ3はわたしにとって初めて遊んだドラクエでもある。初めて遊んだRPGではないが、なにせ当時小学生だったこともあり、ほかの何かを引き合いに出して比較できるほどの知識や経験はまだ持ちあわせていなかった。見るもの触れるものすべてが新鮮で、驚きだった。あのころほどテレビゲームというものに真剣に向き合い、ひとつひとつの体験を噛みしめていた時期はなかったし、きっとこれからもないに違いない。
そういえば、ドラクエ3にまつわる忘れられない体験として、こんなことがあった。
あれは、発売から半年も経ったころだったのだろうか? クラスのとある男の子とたまたまドラクエ3の話題になり、わたしが「最近買ってもらったばかりで、まだアリアハンから出ていない」と言ったものだから、進め方をレクチャーするためにその子が家に遊びに来ることになった。
その子の名前は仮にMくんとしておこう。やってきたMくんは、わたしのセーブデータを見るなり「なんでこんなに強いのにアリアハンにいんの?」と笑いながら言った。
そのときのわたしのパーティはオーソドックスな勇者・戦士・僧侶・魔法使いの4人パーティで、レベルは全員10を超えていた。魔法使いがリレミトやルーラの呪文を覚えていたほどだ。装備も全員、付近で購入できる最強クラスのものを揃えていた。控えめにいって、ゲームスタート地点でうろうろしているような段階ではもうない。どうしてさっさと次のロマリアに進まないのか、Mくんが呆れ笑いをするのも当然だった。
のんびりペースの理由
そこで正直に白状した。「洞窟に行くのがいやで」と。そのころわたしはダンジョンへ行くのが、というよりは、今いる安全な場所から先へ進むのが怖かったのだ。
ゲームのスタート地点であるアリアハンから、次のお城があるロマリアに進むためには、岬の洞窟とナジミの塔、いざないの洞窟と、ダンジョンをみっつ攻略しなくてはならない。町から離れた場所に乗り込んでいって、町の周辺よりもさらに強力なモンスターと出会うのは怖い。洞窟のBGMと塔のBGMにはそれぞれ別種の不気味さがあり、聴いているだけで居心地が悪い。フィールドのBGMは勇ましいものの、そこでも油断はできない。たとえばレーベの村から少し東へ行くと出現するまほうつかいは、明らかに場違いな感じがする。味方の魔法使いのヒャドなら一撃で倒せるのに……。
幸い、Mくんは親切だったので、わたしに代わって洞窟を抜け塔を登り、ロマリア到着まで進めてくれた。そしてそればかりか敵から逃げまくってイシスまで行って、ルーラの呪文でいつでも町から町へと移動できるようにしてくれた。
嬉しかったので、Mくんが帰っていったあと、ロマリアからイシスまで何度も往復して町の人の話を聞きまくった。出現するモンスターも強くなったので、またこつこつとレベルを上げ、ゴールドを稼いでせっせと装備品を整えた。アッサラームのぼったくり店で、りりょくのつえとてつかぶとも買い、さらに戦い続けているうちにレベルは20を超えた。早く次の町へ行きたい。けれどもそこでまた行き詰ってしまう。やっぱり、先へ進むのがどうしようもなく怖いのだ。
結局、それからピラミッドを探検したり、カンダタと戦って船を手に入れるのはまたMくんにやってもらった。「おまえな、いい加減にしろよ」と笑いながらも、Mくんは親切だ。ただ、さすがに三度めの手助けはなかった。結局、わたしが家族に見守られながらドラクエ3をクリアするまでには、足かけ1年はかかったのではないだろうか。
いろいろと怖かったドラクエ
そもそも、あのころのドラクエは何かと怖かった。
ピラミッドの宝物庫は言うに及ばず、夜、アリアハンの自宅の前で勇者の母親が立って待っているのも薄気味悪く、中盤に商人の町で起きる革命のイベントも怖かった。とある攻略本に、ノアニールでのイベントについて「ゲームの中で駆け落ちだのなんだのと、子供も大変だ」的なことが書かれていたが、当時実際に子供だったわたしからすれば、「かけおち」のいったい何が大変なのかわからない。牢屋に入れられるほうがよっぽど怖い。
あやしいかげも怖かった。中にどのモンスターが入っているかわからないからというよりは、あの白っぽい姿が戦闘画面の黒い背景に浮かび上がっているのが不気味だった。ダンジョンで数体まとめて出現するのはそこまで恐ろしいと思わない。ノアニールの周辺に1匹だけ出現するという状況が、まるでけっして出会ってはいけないものに出くわしてしまったようで恐ろしくてならず、付近を歩くときはいつも目を細めてプレイしていた。
初代のドラゴンクエストやドラクエ2はこのときまだ遊んだことがなく、友達が家でプレイしているのを横から見物していただけだったが、こちらも怖いと感じる要素はいくつもあった。
初代はまず洞窟のBGMが怖かったし、呪いの装備を身に着けると外せなくなるというのも怖かった。まほうつかい系統、特に終盤に出現するだいまどうの黄色いローブ姿も直視できなかった。ドラクエ2ではまじゅつし系統が「直視できない」対象で、友達は「ドラゴンフライやブリザードに比べたら怖くないじゃん」と言うのだが、怖いものは怖い。にもかかわらずその恐怖の理由がさっぱりわからず、その事実にことさら不安をかき立てられた。
怖さの正体はなんだったのか?
なぜ、あのころあんなにたくさんのものが怖かったのか? 恐怖にも説明できるものとできないものがある。たとえば、勇者の母親が怖いのは、勇者が一人前の人間として危険な旅に出ることを認められたのにもかかわらず、夜になると家の外でわが子の帰りを待っているというシチュエーションが奇妙に思われるからだ。
町の外で戦ってレベルを上げ、町に戻って回復をするというサイクルがある以上、無料の宿泊ポイントである母親のところへ何度も通うのはまあわかる。しかし、何も家の外で待っている必要はないのではなかろうか。「じゃああなた、わが子が帰ってこなかったら一晩中外に立っているんですか?」と訊ねたくなるし、仮にそうだとすると、旅立つ身にそうした母親の態度は重すぎる。もしも今回のリメイクでも相変わらず家の前で待っているのだとしたらどうしよう? そうなったらやっぱり怖いので、せめて、アリアハンの城門が開く音を聞きつけて(城壁があるのだから門だってついていることだろう)、もしやわが子が帰ってきたのかもしれないと慌てて家の外に飛び出してきた……くらいの解釈をしていたい。
商人の町の革命イベントが怖かったのは、それが子供であるわたしの理解の範囲を超えていたからだ。悪事を働いて投獄されるというのならともかく、つい最近まで一緒に旅をしていた(そして勇者の仲間である以上、善玉であるはずの)商人が、町の発展のために尽力したのにもかかわらず住人たちに疎まれ、憎まれて囚われる。しかもオリジナル版では二度と牢から出られない。昔はそうした展開に不条理を感じて怖かったのだろう。
一方で、いまだ説明づけられない怖さもある。一部の敵モンスターの外見に対する怖さは実のところ今でもあり、これは本能的なものかもしれない。あやしいかげは今でも怖い。だいたい名前が不気味だ。平仮名表記したときの「や」と「げ」がおどろおどろしさを増している。漢字で「怪しい影」と表記すれば少なくとも字面は怖くもなんともなくなるが、あやしいかげはあやしいかげと書きたいのでジレンマである。自分でも何を言っているのかよくわからない。
アリアハンから遠くへ行けない話に戻れば、あれは怖さというよりも、不安や警戒心という言葉と置き換えたほうが適切だろう。わたしは実生活でもあまり無茶をしないたちで、何か新しいことを始める前には情報収集も含めて入念に下準備をするタイプだ。ほかのRPGを遊んでいても初期レベルのまま突っ込むようなことはせず、「そろそろここでレベル上げをするのは効率が悪すぎるかな」と思われるまで育成してから先に進む。それはどちらかといえばわたしの性格に起因する慎重さと呼ぶべきもので、恐怖とは少し違っていそうだ。
いろいろ書いて、長くなってしまった。
ドラクエの怖かった思い出について語り出せば、話は尽きない。けれどもそれは、ドラゴンクエストという作品が格別に恐怖を駆り立てる作品だったというよりは、上で書いたとおりに当時のわたしがまだいろいろとスレておらず、あらゆることを新鮮な気持ちで体験できる年齢だったからこそだったのではないだろうか。ゲームとは、RPGとは、ドラゴンクエストとはこういうゲームである……そうした前提がまだ自分の中に出来上がっていなかったからこそ、楽しみや感動があり、恐怖があったのではないだろうか。そして、そうした体験ができたことは、やはり貴重なことだったように思う。