正義よりも、正しいことよりも

この文章は「ファイナルファンタジーⅣ」の内容に触れています。「ファイナルファンタジーⅣ ジ・アフター 月の帰還」や、リメイク版等の関連作品の内容は考慮していません。

FF4のストーリー

劇的で泣ける展開もいい。だがそれよりも、たとえ多少地味であったり雑なところがあったとしても、一本筋の通った話に惹きつけられる。わたしにとってFF4はそんな作品で、今でも「ストーリーが好きなRPGは?」と訊かれたら、そのうちのひとつとして挙げることだろう。

一方で、FF4のストーリーには批判があることも承知している。主人公セシルは降りかかる想定外の出来事に対処するすべを持たず、絶体絶命のピンチを味方の自己犠牲によって切り抜ける場面が多い。その犠牲がお涙頂戴的であるとともに、死んだと思われた仲間たちの大半は実は生きていたことがのちに判明する。結果的に、似たような展開が何度となく繰り返されることになる。また、ストーリーの序盤から宿敵として立ち塞がってきたゴルベーザは、実際には別の存在に操られていただけだったことが終盤で明らかとなり、ラスボスのポジションはこのポッと出の敵にあっさりと明け渡される。

こうした点がストーリーの粗として指摘されるのは大いにわかる。繰り返される別離と再会、真相の判明はプレイヤーの心を揺さぶるものの、そのことを理由に「FF4のストーリーはその場その場のお手頃な感動を数珠繋ぎにしただけの安直な内容だ」と断じることはたやすい。

だが、本当にFF4のストーリーとはそれだけなのか。

死別の意味するもの

いまいちど仲間たちとの「死別」のシーンを時系列順に振り返ってみたい。ここでいう「死別」とは、のちに生きていたことが判明する例も含んでいる。また、パーティメンバーとして加入することのないアンナやエブラーナ王、王妃との死別はここには含めない。

  1. ミストの村で大地震が発生し、カインが行方不明となる
  2. バロンへ向かう海路で嵐に巻き込まれ、リディア、ヤン、ギルバートが海に転落する
  3. バロン城で、パロム、ポロムがセシルを助けるために石化する
  4. ゾットの塔で、テラがゴルベーザと戦って命を落とす
  5. バブイルの塔で、ヤンが巨大砲を阻止するため爆発に巻き込まれる
  6. 地上と地底を結ぶ大穴で、シドが追っ手を食い止めるため飛空艇から飛び降りて自爆する

1・2は予期せぬ災害に見舞われたという状況であり、悲愴な別れのシーンとして演出されているわけではないが、再会時にセシルが「生きていたのか!」などと発言することからセシルは彼らを死んだものと見なしていたとして、今回の「死別」の例に含めている。

さて、3から6までの例のうち、唯一の例外が4のテラの例である。というのも、4以外の例では死んだものと思われていた仲間たちが実は生きているのに対して、テラのみはこのイベントにおいて命を落とすからだ。

テラは娘の仇であるゴルベーザに挑むために我が身も顧みずにメテオを使い、そして命を落とす。この点は特に重要だ。FF4に登場する仲間キャラクターの中で、ストーリー上で死亡するのはテラただひとりである。ならば、なぜテラだけが例外なのか。その疑問を解き明かすために、FF4のテーマがどういったものであるかを考えてみたい。

赦しというテーマ

試練の山にてパラディンとなったセシルは、「正義よりも正しいことよりも大切なことがある。いつかわかるときがくる」という言葉を聴く。それがなんであるか、答えがゲームの中で明示されることはないものの、大切な問いかけであるといえる。

このとき、セシルにはふたつの負い目がある。ひとつは主君であるバロン王の変貌に疑念を抱きつつも、命じられるままにミシディア国を襲撃したこと。もうひとつは知らぬこととはいえミストの洞窟のドラゴンを倒し、ドラゴンを召喚したリディアの母親を死に至らしめてしまったことだ。セシルはバロンの軍人なのだから、命令に従って行動することはある種の正義であり、正しいことでもあるだろう。だが、彼は弱い人々を踏みにじった自分自身に苦悩する。

もしも、母を殺されたリディアや国を侵略されたパロムとポロムがセシルを憎み、彼と敵対したとしても、それは別のかたちの正義であるといえる。けれどもリディアはセシルが追っ手のバロン兵から自分を守ってくれたことで心を開き、パロムとポロムもまた長老の言いつけによってセシルの試練に協力し、彼がパラディンとなる姿を見届ける。3人は憎しみはひとまず脇に置いて、セシルという人物をその目で見極め、そして彼の悪しきおこないを赦した。その赦しがあったからこそ、セシルはファブールに危急を伝えに行くことができた。さらには試練の山において暗黒騎士としての過去と決別し、パラディンとして生まれ変わることができたのだ。

暗示的なのはセシルが直面する「試練」の内容だろう。パラディンの姿になったセシルに襲いかかってくるのは、鏡に映し出された暗黒騎士としての彼自身だ。このときセシルはみずからの意思に反し、暗黒騎士を倒すのではなく、その攻撃にひたすら耐えなければならない。それはさながら、かつての自分を滅ぼすことで過去の所業を「なかったこと」にするのではなく、暗黒騎士であった自分自身と向きあい、そして過去を受け止めよというメッセージであるかのようだ。

ミシディアの長老が言うように、死んでいった人々は帰ってはこない。あやまちをなかったことにはできない。それでもセシルは過去と向きあい、それまでとは違う自分になるという道を切り開く。それを可能にしたのはリディアやパロム、ポロムの赦しがあったからこそだ。

赦しの対極にあるもの

仲間との死別の話に戻ろう。パロムとポロム、ヤン、シドの命を賭した行動は、セシルや仲間たちを守るためだった。死に臨む彼らの態度に、卑劣な敵を憎んでいる気配はない。彼らはセシルへの親愛の言葉を口にしたり、残される者の未来を願ってわが身を投げうつ。

一方、テラの死にざまは彼らとは異なっている。テラは最愛の娘アンナを殺され、ゴルベーザに対する憎しみに取り憑かれた。彼はセシルたちの制止を振り切り、究極の魔法メテオがみずからの命を奪うことになると予感しつつもゴルベーザに挑み、そして持てる力を使い果たしてしまう。彼は純粋な憎しみと復讐の念のみを抱いて散っていく。その姿は「赦し」とは対極のものだ。だからこそ、「赦し」を是とするこの物語において彼は死ななければならなかった。仲間のために犠牲になったと思わせながら生還する者たちが何人もいるからこそ、テラの死というただひとつの例外が際立つ。

ところで、FF4の物語にはもうひとり、憎しみに身を委ねた人物が登場する。それが真の黒幕である月の民ゼムスである。彼の強すぎる憎しみの念はゴルベーザを変貌させ、青き星に憎しみの連鎖とも呼ぶべき災厄をもたらした。正気を取り戻したゴルベーザはフースーヤとともにゼムスを打倒するものの、ゼムスの憎しみは留まるところを知らず、その姿は完全暗黒物質ゼロムスへと変わる。

ゴルベーザとフースーヤの使うWメテオと、その後のメテオの応酬はテラとゴルベーザの戦いを連想させ、それが単なる憎しみと憎しみのぶつかり合いでしかないことを思わせるようだ。ゴルベーザにはクリスタルの輝きを取り戻すことができない。それは、このときの彼がいまだ悪しき心=憎しみから完全に解き放たれていないという証拠なのだろう。

おわりに

あやまちが消えないように、一度心に抱いた憎しみもたやすくは消せない。セシルもまた、一度ならず敵の術中に落ちたカインをふたつ返事で「赦す」とは言えなかったし、いきなり兄といわれたところで、ゴルベーザに対する負の感情を捨て去ることは困難だった。ゴルベーザがゼムスの登場によって唐突に黒幕の座から追い落とされることでプレイヤーが感じる「肩透かし感」も、あるいはプレイヤーの分身たるセシルの複雑な心情とリンクすることを意図している……といったら深読みしすぎだろうか。

けれども、リディアが母の死を悲しみつつもセシルの命を救ったように、セシルは苦い思いを呑みほしてカインの協力を受け入れ、ゴルベーザのことを兄と呼ぶ。そんな彼の手によってクリスタルは輝き、「憎しみ」が生み出したゼロムスを消し去る力をもたらす。ゼムスから発した憎しみの連鎖は断ち切られる。

人は時にだれかを激しく憎む。けれども、だれかのために行動し、あやまちを犯した人間に手を差し伸べるのもまた人間だ。カインやゴルベーザの罪を罰することは正義であり、正しいことかもしれない。けれどもそれよりも大切なことがあるのだと、この物語は訴える。

FF4のストーリー展開は、確かにワンパターンではある。しかし主題は一貫し、ぶれてはいない。ストーリーの根底には「赦しと憎しみ」という相反する一本の筋が通底し、作品を味わい深いものにしている。そこにわたしは今も変わらず魅力を感じるのだ。